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納骨

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数メートル先にある扇風機から

出るねっとりとした風が頬を撫でる。

 

四方にある開け放した戸の間では

風が通るはずなのに、扇風機なしでは

 その寺の境内は無風になってしまう。


風のかわりに外から入ってくるのは規則正しい蝉の鳴き声のみであった。


目の前では住職が汗を拭きながら

お経を唱えている。


短い命を繋げようとなく蝉と

終わった命を慰める住職のお経、


ささげられる対象は違う。

 

しかし、どちらの声の主の言い分を

理解しようとしても、

 

生きることの無常さが耳から入り込んでくることに変わりがなかった。


7月16日、父の納骨を行った。

 

この地域はまだ梅雨が明けておらず、

曇った空は日差しを遮って

夏の暑さを気持ちばかり和らげていた。

 

6月13日の早朝、父は亡くなった。

 

大腸がんを切除し人工肛門を

つけていた父であったが、

腸閉塞を起こして急に逝った。


その時の父のことを思いながら何年ぶりかに行った墓は荒れていたが

 少し掃除をしてきれいになった。

 

ろうそくと花、果物など御供えし

父の供養、納骨をした。

 

父が供養していた先祖の6つの位牌も

寺に頼んで供養してもらうことにした。

 

父の遺骨を納める為に墓をあけると、

中にはまだ祖母のものが風化せずに

残っているのが見えた。

線香をあげ、手を合わせるとき、

ありがとう、ばいばい、このふたつしか想うことはなかった。

 

つくづく私は薄情であると思った。

父が死んで以来、まだ一度も

涙を流していない。


男はこんなものであろうか。

まだ気を張っているんだろうね、

と母は言った。

 

葬式・火葬から納骨まで終えた今、

と段落ついてほっとした感じはする。

 

しかしなにか雨雲のような、行き先のない湿った感情がぼんやりと、


一方でしっかりとした質量をもちながら私の胸中に居座っていることは事実であった。

 

この雨雲からいつか雨が落ちることが

あるのだろうか。

 

もしかしたら、誰かの何気ないやさしさに触れたときにふと涙がでるのかもしれないし、あるいはこのままずっと、

雨雲は居座り続けるのかもしれない。

 

薄情な私のことだから、

もうしばらくしたら父が死んだことは

お構いなく、しれっと自分の生活に 戻るのかもしれなかった。

 

しかし、涙は出ていない。今はまだ。

 

この重い雨雲が私の胸にいる間は、

父の思い出と一緒にいれるのだと思うと嬉しい気もする。